<碑文資料>

金石文解釈2 (鵜無ケ淵神明宮 記念碑)
堀江俊也氏資料より引用
鵜無ケ淵神明宮は、本校の北およそ二キロ、吉永第二小学校の東にある。参道の途中、左側にこの記念碑は建てられている。作者の「生駒所適」は、吉永第一小学校初代校長の生駒藤之氏のことである。
◆原文◆
記念碑

 鵜無ケ淵神明宮在邑之中央殿宇據丘陵為位東望伊豆諸山於雲煙之際西眺三保薩唾於波濤之間風光尤稱絶佳今茲一月神戸市上山與作君投私財修理祠前道路長九十間中央敷列石板側面築以石畳行数十歩而上石級又行数十歩而又上石級如此行而上者前後六石級合為一百有二級而達於拝殿殿後又有石級十三級其巓為本社焉於是乎寂莫之幽境變為荘厳之霊域上山君石川源三郎君之第二子年十七去郷給事大坂豪商岩井某期満為神戸支店管理後独立以海外貿易為業蓋以本社為君幼児之城隍廟故有此挙也十月告成欲先祭日建記念碑而日已迫屬文於余不暇往而一見其工事因従所聞記焉以塞責云

大正四年乙卯十月   生駒所適 撰   本多藤江 書
◆書き下し◆

記念碑

 鵜無ケ淵の神明宮は邑の中央に在り。殿宇は丘陵に據り為る。位は東に伊豆諸山を雲煙の際に望み、西に三保薩陲を波濤の間に眺む。風光尤稱にして絶佳たり。今茲一月、神戸市の上山歟作君、私財を投じ、祠前の道路を修理す。長さ九十間、中央に石板を列べ敷き、側面は以て石畳を築く。行くこと数十歩、石級を上り、又行くこと数十歩、又石級を上り、此くの如く行きて上ること前後六石級、合わせ一百有二級を為し、拝殿に達す。殿の後又石級十三級有り。其の巓きに本社を為る。是に於いて寂莫の幽境変じ、荘厳の霊域と為る。上山君は石川源三郎君の第二子なり。年十七にして郷を去り大坂の豪商岩井某に給事す。期満ち神戸支店の管理と為り、後に独立し、海外貿易を以て業と為す。蓋し本社を以て君の幼児の城隍廟と為す。故に此の擧有るなり。十月成るを告げ、先づ祭日記念碑を建てんと欲するも、日已に迫る。文を屬すに余の暇あらず。行きて其の工事を一見し、因りて聞く所に従ひて記す。以て責めを云に塞ぐ。

大正四年乙卯十月  生駒所適 撰  本多藤江 書
◆口語訳◆

記念碑

 鵜無ケ淵の神明宮は村の中央にあり、社殿は丘によりそって作られている。東には伊豆の諸山をはるか雲のかなたに望み、西には三保松原や薩陲峠を波の間に眺める位置にある。景色は最高であり、絶景である。今年一月、神戸市の上山歟作君は私財を投じ、ほこらの前の道路を修理した。長さ九十間(百六十メートル)、中央に石板を列べ敷き、側面は石畳で築いてある。数十歩行き石段を上り、又数十歩行き、又石段を上り、このように六つの石段を上り、合わせて百二段を上り、拝殿に達する。拝殿の後ろを、又石段が十三段有る。其の頂上に、本殿が作られている。この修理のために、もの寂しい世間から離れた地は、荘厳な霊域となった。上山君は石川源三郎君の第二子である。十七歳にして故郷を去り、大坂の豪商岩井某のもとで働いた。時が経ち、神戸支店の管理となり、後に独立し、海外貿易を生業とした。思うに、本社(神明宮)を彼の幼児のための、守り神としようとしたのだろう。そのためにこの行いをなしたのだ。十月に完成することを告げられ、まづ祭日に記念碑を建てようとしたが、日時が迫っており、文章を書く時間が足りない。行きてその工事を一見し、聞く所に従って記した。以上で文章を終える。

大正四年乙卯十月  生駒所適 作  本多藤江 書