11:注釈



在米日本人長老教會歴史

 1911年発行。
 在米日本人キリスト教徒および教会活動に多大な貢献をした、アーネスト・A・ストージ博士と同婦人の伝道活動25周年を記念して発行された小冊子。
 編纂は年會準備委員として選ばれた稲澤謙一、小林誠、宮崎小八郎の3人。短期間で作成された様子で、内容に重複や校正の甘い点などが見られるものの、写真や長老教會・青年會出身者の簡単な消息を掲載している点で貴重な史料といえるだろう。
 私が見ることのできたのは、都立中央図書館の蔵書だが、これには1930年代にカリフォルニアの邦字新聞「加州毎日」、「南加毎日」の記者として活躍した中村秋季の印と「順三郎伯父米國より余の許によす」の但し書があった。

奥野 武之介

 奥野 武之介 [?-?]
 一時、桑港日本人長老教会で伝道を行なった後、ニューヨーク州ブルックリン市日本人基督協会主任を務めるが病死。
(『在米日本人長老教會歴史』による)


坂部 多三郎

 坂部 多三郎 [?-?]
 桑港日本人長老教会の牧師としてサンフランシスコの娼婦救済施設キャメロンハウスの運営および娼婦から救出された日本人女性の自立のための手芸教室の開催に携わっていた。明治30年当時、シアトルで娼婦となっていた婦人運動家の山田わか(1879〜1957)の更生と受洗を行ったといわれる。

 後に東京力行女学校(明治41年設立)の教頭を務めた。
(『在米日本人長老教會歴史』による)


ヘイト青年会を牛耳っていた石川定邦

 KAWAMURA PAPERS(UCLA・河村幽川文書)「邦字新聞の盛衰」によれば、ヘイト青年会を牛耳っていた石川定邦は、自らが発行する心算だった日本語新聞の先を越して発行された同じ青年会の副島八郎らの「新世界」に怒り、これを青年会から追い出すとともに、青年会の建物内に間借していた平都印刷所をねちねちといじめた人物とされている。
 しかし、河村幽川は石川定邦が後に後悔して仏教に帰依し、桑港パイン街の本願寺別院で念仏三昧の生活を送ったなどと記していることからも、信頼のおける記録者ではないようである。
 この河村幽川の「カリホルニヤ開化秘史」という本の存在を知り、てっきりこの間の事情を書いた本だと思い込んだ私は探し回ってやっと手にしたが、案に相違して中身はカリフォルニア州そのものの歴史の手引きだった…しかし、この本の序文に在米日本人会の依頼で在米日本人史を執筆予定とあり、KAWAMURA PAPERSはその草稿だったのかもしれない。
(『KAWAMURA PAPERS』については、松尾理也氏のホームページ
Portraits of Japanese Immigrants in the Early Years
から引用させて頂きました)


在米日本人長老教会の3長老(役員)のひとり

 「在米日本人長老教會歴史」によれば、石川定邦(源三郎)は、1887年7月27日に長老のひとりに選出されたが、この時は就任せず、翌1888年11月4日に再び選出され同年12月5日に就任、1890年まで長老を務めた。
 さらに2年を経て1893年2月に長老に再選、1896年まで務めている。
 いくら有能だとしても、渡米翌年の長老就任は早すぎるように思われるので、あるいは渡米前から国内、例えば東京築地の東京第一長老教会などに所属していたのかもしれない。

雑誌「遠征」

 明治24年(1891年)7月4日創刊、明治27年頃廃刊
 月2回刊行。西島勇、高島多米治、渡辺(中村)歓二郎、竹川藤太郎、松田宗太郎らによる「海外実業社」(後に遠征社と改名)により発行される。
 発行所は、オッファーレル町321番半にあり、314番半にあった愛国同盟とは心情ばかりか地理まで近かったようだ。

青木 広太郎

 青木 広太郎(?−?)

 「遠征」関係には詳細不明の者が多いらしく、青木広太郎もそのひとり。
 ただし、旧九州大学石炭研究資料センター・東定宣昌教授による貝島鉱業株式会社の創業者「貝島太助伝」の研究(九州大学石炭研究資料センター叢書第20号)中に、太助の長男栄三郎が明治37年、青木広太郎に託して初めて編纂に取りかかるが、翌38年に青木が病死したため、伝記の計画が頓挫したという記述があった。
 両者が同一人物だという確証はないが、年代から見て可能性は十分あると思われる。

「明治三十七年、青木広太郎氏に托し、始めて『貝島太助伝』の編纂に従事せしめしが、青木氏拮据淬励専ら鞅掌すること一箇年、不幸病に罹りて逝き、資料の蒐集は筆硯と共に中途廃絶するに至り、予久しく以て遺憾と為せり」(貝島栄三郎による『貝島太助伝』の序文)
資料提供:旧九州大学石炭研究資料センター


不敬とされた源三郎の発言

 証人・佐竹謹之助の言として『遠征』が伝えているのは、次の通り。

昨年天長節ノ翌日君ハ傍人ト其際ノ模様ヲ評論シ「鍋倉カ天子ノ聖徳ヲ頌スルハ善キモ人ノ写真ヲ掲ケ之ヲ飾ルニ〈カーテン〉ヲ以テシ来会者一同ヲシテ之ヲ敬拝セシムルハアレガ偶像ヲ拝スルト云フモノニシテ野蛮ノ遺習也」云々ト。
(二村一夫先生の資料による)


永井 元

 永井 元(元治元年(1864年)3月、群馬県生まれ)
 上毛の民権運動に関わった後、明治22年(1889年)6月6日に横浜から渡米。
 はじめ愛国同盟の一員となるが、キリスト教徒の立場からか、後に批判にまわる。明治38年(1905年)、足尾鉱毒事件のルポ『鉱毒地の惨状』の著者・松本英子と桑港で結婚。「金門日報」の後も日系紙の発展に尽力した。

 明治26年(1893年)2月11日に創刊した「金門日報」は、愛国同盟系の日刊新聞「桑港新聞」のキリスト教排撃に対し、キリスト教擁護の論陣をはったほか、婦人参政権の主張や廃娼運動などへの取り組みを行なった。
 発行部数は約70部(「桑港新聞」は、5〜60部)。3年ほど発行された後、廃刊となったという。