川源三郎について紹介されている資料に、館林藩の留学生というものがあった。
しかし、これはちょっとおかしい。廃藩置県は明治4年(1871年)のことであり、明治24年に旧藩士を名乗るとしたら、それだけの理由がなければならない。
旧藩士だったというだけにしても、明治24年には石川源三郎はどんなに若くても30代後半、たぶん40過ぎということになる。
しかし、それだけで藩士を名乗るだろうか?
もかくも、館林出身という手がかりはある。
この手はまず地元の教育委員会に尋ねるのが一番。さっそく群馬県館林市教育委員会に問い合せをした。
市外からの得体の知れない問い合せにもかかわらず、担当課ではわざわざ郷土史研究家に聞き取り調査を行なってくれた。その結果、次のことが判明した。
- 石川源三郎は安政5年(1858年)、館林町生まれ。
- 慶応4年(1868年)、父・石川喜四郎が戊辰戦争に参戦。茨城県結城市で戦死(享年35歳)。
その後、遺児・源三郎は母とともに上京。
10歳で上京したため、その後の石川源三郎についての資料は、ほとんど館林市には残っていないとのこと。
それにしても、源三郎の生年は安政の大獄の年であり、上京の原因は戊辰戦争…幕末から明治へと大きくうねる歴史に翻弄された生い立ちではないか。
明治24年当時、石川源三郎は32歳か33歳だったことになる。やはり、館林藩士であったわけではないが、幼くして父を亡くし、故郷を出た彼にとって出身はあくまで「館林藩」であり、「父は館林藩士」と言っていた可能性はあるだろう。
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身地と生年が確認できたところで、新たな疑問が生まれてきた。
石川源三郎は、どうやって渡米したのだろうか?
明治の頃、アメリカに留学するというのは大変な事だったに違いない。渡米資金はもとより、英語の習得なども問題だったはずだ。
父を亡くし、母と二人で故郷を後にした10歳の少年は、どのようにしてスプリングフィールドにまでたどりついたのか。
裏付ける資料は何もないが、現時点での仮説を立ててみた。
ず第一は、石川家が相当な財力を持っていたのではないかということ。
一家の大黒柱を失った親子は財産を整理し、新たな可能性を東京に求めたのかもしれない。その場合、その財産のほとんどが源三郎の教育費にあてられたとしても不思議はないだろう。
もうひとつは、YMCAと群馬県という2つのキーワード。
明治初頭、群馬県は国内でもっともキリスト教がさかんな土地だった。明治11年(1878年)には、京都に同志社英学校を興していた新島襄らにより、日本人の手による初の教会・安中教会も設立されている。
こうした地縁が、源三郎の渡米を手助けしたというのも、十分ありそうな事に思える。
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