回は、石川源三郎が上京する明治9年までの時代背景について考えてみたが、今回は状況した明治9年から渡米する明治19年までの10年間を見てみたいと思う。
治は不景気だ。産業は未発達、徳川幕府が結んだ通商条約は不利、確たる財源もない日本は、それでも近代国家としての整備を続けなくてはならない。
そのしわ寄せは当然国民にくる。しかし、この時期、まだ庶民は疲弊しきってはいなかった。または近代国家の恐ろしさを知らなかったといってもいいかも知れない。
新時代はまだ、自分達の手で方向を変えることができる。そう信じる人間もまれではない。いってみれば、これこそが青年期にある国の特徴であり、パワーの源だろう。
明治6年(1873年)1月、徴兵令が発布されると同時に各地では反対一揆が起こり、写真のような徴兵逃れのマニュアルも堂々と発行された。幕末の維新志士が抱いた独立自由の共和国が実現するという夢は、絵空事ではないように感じられていた。
かし、それはやはり幻想に過ぎなかった。
幕末の夢であったユートピアは、現実のアンチユートピアとなって明治人に迫ってくる。
自由民権運動は、徴兵令・地租改正反対運動などを通して全国的な運動となり、明治14年(1881年)大隈重信を核とした政党結成の動きとなった。これに対し、明治政府は専制体制を固めるクーデター的な政変を断行。大隈と大隈派の官吏らを政府から追放する。また前後して教育令を改正、自由主義的な風潮から一転して統制色を強め、同時に警視庁を設け、憲兵を組織した。
さらに財政面では有力企業を保護し、地方税を増税。酒・煙草の税率を上げるとともに新たな間接税を設け、国家事業は地方税でまかない、デフレーション傾向を推し進める。このあたりはまるで今の時代のどこかの国のことのようだ。
不況と統制の下で、自由民権派(自由党)の運動は過激化していく。言論で応じないなら直接行動しかないという追い詰められた気持から、各地で政府打倒を旗印にした暴発が起きる。
源三郎の故郷でも、群馬事件が勃発した。明治17年5月13日、群馬自由党員を中心に数千人の農民が妙義山の山麓・陣場が原に集結。政府要人の襲撃を画策したというものである。これに続いて、10月にはおよそ2か月にわたる自由民権運動最大の武装蜂起、秩父事件が起きる。これに対し、明治政府は軍隊を出動させて壊滅を図り、残党を厳しく弾圧。およそ10年間にわたる自由民権運動の息の根を止めた。
こうした世相は、10代の多感な源三郎にも当然影響していたと思われる。
徴兵検査の20歳を前に、たとえ留学修行によって徴兵逃れをしようと思っただけにしても(それはないと思うが)、むしろ無関心でいることの方が難しかったろう。
それは、その後の源三郎が第一次大戦の激化まで海外を居住の場としたことにも関係しているのではないないだろうか。
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まざまな資料をあたっていて気づいた事だが、明治人の気質が激昂しやすいように見えるのは、壮士風の漢語表現が原因ではないだろうか。
他愛のない鬱懐でも漢語表現にすると、おそろしく大仰な雰囲気になる。今日それを見ると、壮大な考えを持っていたように思えるのだが、よくよく考えてみると日常の小さな感想に過ぎなかったりするのだ。
もっとも、人間の思考というのは言語に左右される。漢語で考えれば、自分じしんの言葉にさらに刺激されて激昂するというのはありえる事である。
同様に虚無や無力感を詩情に託すというのも、明治人の特徴であるようだ。それぞれの感情に表現の形式があるという点で、現代よりも幅広い言葉の体系を持っていたように思える反面、表現してしまえば終わりという体質も生み出しているようである。ただし、この体質だけは現代社会にも受け継がれている。
謝野鉄幹は明治44年、いわゆる大逆事件に連座して処刑された親友・大石誠之助を悼む詩に「大石誠之助は死にました、いい氣味な、機械に挟まれて死にました。(中略)機械に挟まれて死ぬような、馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。」と記している。
これはありもしない罪をデッチあげ、目障りな思想家を厄介払いした明治政府をシニカルな表現で痛烈に批判した詩だが、この「機械」というのは明治人を苛立たせていた当時の社会をよく表現しているのではないだろうか。
明治18年に来日したドイツ人宣教師・シュピンナーは日記にこう記している。「学校の青年達の大騒ぎ。彼らは今いたるところ壮士の精神によって汚染されている。キリスト教は非愛国的であるということで評判が悪い。アメリカ人は日本人をあまりにも共和国主義的に教育しすぎた」。
石川源三郎を含む明治の青年たちをあまねく覆っていたのは、第一に新時代への期待とアメリカンドリームにも似た海外での成功、第二にキリスト教や自由民権運動に代表されるリベラルな思想や文化へのあこがれ、そして第三にそれに反するように存在する不気味な顔の見えない機械・初めて出会った近代の官僚機構への不信と不安、加えて依然として存在し続ける貧困と旧弊な「家」思想の重圧だったろう。
そうして、この苛々と精神を圧迫し続ける明治の重圧から逃れるには、愛国的な盲目さに浸るか、国外に脱出するしかなかったのかもしれない。とくに国外へと脱出することが手っ取り早く、しかも兵役も逃れ得る方法であると考えられていたことは想像に難くない。
もちろん、向学心もあったろう。しかし、私には石川源三郎たちが渡米した原因のひとつに、混迷の度を深めつつある明治という理不尽な時代への嫌悪と、耐え難い閉塞感を与えるこの国を離れたいという願望があったという気がしてならないのだ。
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