石川源三郎 Genzaburo Ishikawa
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07:新世界を求めて
て、いよいよ石川源三郎の渡米について考えてみることにする。
 まずは当時の留学生事情を、片山潜の自伝を手がかりに見てみよう。
北米地図
三郎が目指したのはサンフランシスコ。当時、日本人がアメリカに留学する場合、東海岸のボストンか西海岸のサンフランシスコというのが定石だった。
 その内訳は、官費や裕福な留学生はボストン、私費の留学生はサンフランシスコというパターンが一般的だったようだ。
 脱藩した新島襄が乗ったワイルド・ローヴァー号の目的地だったため、やがて大西洋岸のボストンは日本人留学生のメッカとなった。しかし、マニラからでも当時4か月かかったという海路の旅は、費用も容易ではない。たとえ密航したとしても、途中の寄港地で追い出されるのが関の山だったろう。また、西海岸から陸路を行ったとしても北米大陸を横断しなくてはならず、よほど資金がなければ目的地にすることはできない。
 これに対して、大平洋岸のサンフランシスコは、横浜から海路で3〜4週間の旅。寄港地もハワイぐらいしかないため、費用もぐっと安くなる。
 このような事情もあってか、初期の日本人の移住はサンフランシスコ(桑港)と対岸のオークランド(王府)を中心とする湾岸地区(S.F.Bay Area)で展開されていた。
 全米にいた日本人の数は明治3年で55人、明治13年で148人、明治23年では2039人(うちカリフォルニアに1047人、その多くがサンフランシスコとオークランドにいたと見られている)。
 後の新渡戸稲造(ここでは5000円札の肖像の人とだけ言っておこう)の報告によれば、源三郎が渡米した翌年、明治20年(1887年)の時点でアメリカにいた日本人は男子1275人、女子77人。その半分以上は留学生だったという。
なくてはならぬ銭と金
ストンより安いとはいえ、サンフランシスコへの渡航費は留学生にとって悩みの種。源三郎に先立つ2年前の明治17年(1884年)、「アメリカは貧乏でも勉強ができるところだ」という友人・岩崎清吉の手紙によって渡米した片山潜の場合、3等船客で75円が片道渡航費で必要だった。
 高等文官試験合格の上級公務員初任給が月棒50円という時代のことである。貨幣価値の差を単純に4000倍とすると現在でいう30万円が渡航費として必要だったことになるが、実際には当時の上級公務員は高給取りであったはずだから、渡航費はもっとずっと高額に感じられたはずだ。現在の金銭感覚では100万円といっても足らないのかもしれない。
 片山潜はサンフランシスコに到着した時点で懐に1メキシコドルしか持っていなかったというが、これはいくらなんでも無謀で、例外だろう。
 現地で仕事をしながら勉強するといっても、通常の渡航の場合、当座の滞在費を準備しなければならない。さらに渡航前には洋服もあつらえねばならず、貧乏でも勉強ができるといいながら、留学は何かと物いりだったのである。


治という時代は、維新に関わった日本人にとっては求めた世であり、守らなければならない世界であった。
 その代表格、維新元勲の生き残り・山県有朋などには、必死で若い日の理想や自分達の革命を維持しようとし続けた老人の姿が見える。もっとも、残念ながらその姿はそれほどいじらしくも健気にも見えないのだが。
 しかし、大多数の日本人にとって明治とは「与えられた世」であったことはまず間違いない。300年という、まるでこの世の初めから存在していたかのような徳川の時代が終わったことを時勢の移り変わり……時の流れとして受け入れる人々のなかで、一部の日本人は新時代にふさわしい新しい生活を切り拓くべく苦闘していた。
 石川源三郎もそのひとりであったろう。彼の場合は、日本そのものが与えられた世であり、サンフランシスコは文字どおりの求めた新しい世=「新世界」だったのではないだろうか。
依然謎の渡航前後
ころで、石川源三郎は単身渡米したのだろうか。現状では、渡航前後の資料が皆無なのでまったくわからない。しかし、前々からの仲間というのではなくとも、同じ船で渡航する連れを探していた可能性はある。当時の書簡でも出てくれば、このへんははっきりするかもしれない。
 これも資料の裏付けがない推測だが、源三郎の渡航目的は勉学第一だったのではないだろうかと思う。当時、渡米する日本人の目的は勉学のほかにも、貧困な家を救うために経済的な成功を目論んだものや、政治的亡命などがあった。しかし、渡米前の源三郎の政治的な活動を裏付ける資料が見られないことから、現時点では政治亡命の線は外すしかない。次に貧困な家庭を救うための経済的な成功目的だが、これは国際YMCAトレーニングスクールを卒業した後も就職せず、ウィンスコンシン大学に通っていたことからして、実家がさほど困っていた様子が見られない。
 もちろん、滞在費や学費を負担するほど裕福な実家でもなかったようだが、とりあえず衣食を自力で確保さえすれば、他のことは気にしなくてもよかったという身分なのではないだろうか。

明治30年頃の横浜港大桟橋
明治30年頃の横浜港大桟橋・源三郎もここから旅立ったのか?
参考資料
このページは以下を参考に作成しました。
資料提供やお問い合わせに答えてくださった皆様に感謝いたします。
写真資料提供:
 スプリングフィールド大学・ボブソン図書館
Photo:the Archives and Special Collections,Babson Library, Springfield College, Springfield, MA
ハンブルク美術工芸博物館
Museum fuer Kunst und Gewerbe Hamburg
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