帆は東風を含み船は矢のように進む。観音崎を一気に過ぎ、房総の山々の緑は私の渡航を祝うようだ。
同船者9人、初日は各々、甲板を徘徊して東を見たり西を振り返ったり。
2日目晴れ、午後3時ごろから西北の風が激しくなり、船体が甚だしく揺れ出した。
3日目晴れ、風の勢いは変わらず、同船者の過半数が船酔になる。私もめまいがしかけたが、薬を飲んだお蔭で何事もなく毎日を過ごしている。同船者にも分け与えたので、皆快方に向かった。
4日目には風の勢いもおさまり、5日目(晴)は同船者にこれまでの経歴を語る者が出てきた。話題は、だれそれの貧富や美醜など。多くが横浜在住なので、話題は横浜の人物評。
私の用意してきた物品はこの日のうちになくなった。ミカン1箱は2日ともたず、ミルク1缶は1時間で食い尽くす。互いに同船者の物品を食べている。
6日目は南風が激しく、航海中最もひどい日だったが、私は何事もなく終日甲板を徘徊した。
7日目は寒さがひどく、1日船室で寝ていた。
船室は9人用。中国人の船室は船体の最下部で、空気の流れが悪い。この船には中国人75名が乗っている。
私たちの部屋は船体中段にある。これは私たちが5ドルずつ出し、部屋係の水夫に便宜をはかってもらったおかげだ。私たちの部屋は欧州人の下等船室の隣。上等船室も船体中段にあり、3人の乗客がいるという。
船の船長は「サアー」と呼び、月給250ドル。水夫の最下等の者は月給15ドル。全乗組員数は106人。
8日目(晴天)、この日は東西半球の変わり目で、明日も12月9日になるという。今が変わり目だと親切な水夫が教えてくれたが、私にはその理由がわからず、同船者で互いに推測を述べる。この日、船医が種痘をした。同船者の中の医者が「これは昔、蘭術だった」と教えてくれた。
9日目(曇のち雨)。
10日目、同船者で互いに身分と名前を手帳に記した。銀行役員2名(横浜茂木壮の社長とのこと)、医者の書生2名(1人は都築郡川井村の足立良弼といい、横浜近藤の家で学んでいた者。1人は紀州有田郡の人で田舎で開業していた医者)。川越町の書生1人。北埼玉持田村の石久保という書生1人、横浜の職人1人、横浜講学会発起人の書生1人、東京の紙屋の小僧1人。私をいれて10人。お互いに未来の計画や希望、過去の楽しい事を話すうち、東洋航海の句ができた。
11日目、昨夜豆ほどの雹が降り、今夜もまた降ったが5分ほどでやむ。夜、たわむれに同船者の未来を予言した。某が私の前途を尋ねるので「数万の金を得た後、ナイヤガラの傍らに別荘を建てる」というと、私のあだ名はナイヤガラになった。また、薮医のテンプラなどと色々なあだ名を付けられるものがでた。
話題が尽きたときは、毎夜昔の自由さを懐かしむ話をする。ずいぶんやかましいが、周囲に日本語のわかる者がいないので、皆安心して話している。
12日目はひどい寒さ。この夜から西洋カルタをして、負けた者は10銭の罰金を払うことにし、到着前夜まで毎晩やった。私も仲間に入り、50銭の罰金を払った。多い者は80銭、少ない者は30銭を出した。
各自が携帯した食料も尽きたので、この罰金でコーヒーやビーフテキを買って分けあって食べる。銀行役員が試したというので、私は毎日中国人料理人に10銭払ってコーヒーとパンを貰った。船中で食事に苦労することはまったくなかった。最初は1日に3食を食べる者もいなかったが、最後には皆が3食になった。
13日目は朝から雹が降ったが、寒くはない。14日目は晴れ、15日目は曇り、16日目は快晴。17日目は朝のうち雨、昼は晴れ、夜は曇り。航海中はだいたい、こんな日ばかり。この日は水夫等がきれいに掃除をした。
18日目、同船者は上陸の用意をした。午後4時20分にゴールデンブリッジを過ぎ、夕方サンフランシスコに着く。目の前に広がる風光は限りなく心地よい。
ゴールデンブリッジを入り、迂回してサンフランシスコに到達。船は岸へと進み、橋を過ぎて最も不潔な税関を通る。
税関から外に出る門があるが、一人ずつ出ることはできない。私たちはこの夜、荷物を船に残してコスモポリタンホテルに着いた。
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サンフランシスコに入港する太平洋航路の船(大正初期?)
の手記は石川源三郎と同じ年の明治19年(1886年)、12月2日にサンフランシスコへと旅立った青年民権家の石阪公歴が航海の様子を父に書き送った手紙の一部。 (→原文)
原文は東京成徳大学日本伝統文化学科の鶴巻孝雄先生のホームページに掲載されている研究資料。当時の太平洋航路の雰囲気を生き生きと伝えていて、私がどんな説明をするよりもわかりやすいため、転載させて頂いた。
突然のぶしつけなお願いにもかかわらず、鶴巻先生は「私も高校時代までバスケ一筋でしたから」と、快く転載を許可してくださった。この場を借りて、深く御礼申し上げます。
原文は旧カナ遣いのため、一部割愛して現代文へと改めた。文章の通りが悪いのと内容の間違いは、もちろん全て私の責任。(皆さんもちゃんと勉強しておかないと、こういうところで恥をかきます)興味がある方は原文または鶴巻先生のホームページを参照してほしい。 (→鶴巻孝雄研究室)
れにしても石阪公歴の手紙は、生き生きと緑したたるような記録だ。
当時の渡航事情を知る上で、どんな資料よりも素晴らしいものではないかと思う。
当初引用するつもりだった片山潜の手記では、航海の部分がいたって簡単に済まされている。リアルなのは慶応の学生3人組にしてやられた事ぐらいで、あとは「航海中面白いことはなにもなかった」で片づけられていて、思うに片山先生、船酔いでほとんど寝ていたのではないだろうか(笑)。
もっとも、はじめて船旅をした人の記録はたいがい自分だけは船酔いしなかったように記してあるものだから、石阪公歴の場合も同様かもしれない。私の個人的な経験からいって、程度の差こそあれ太平洋では誰もが一度は船酔いにかかるものである。おそらくは石川源三郎も同様だろう。
それはさておき、石阪公歴の場合、石川源三郎と同じ年の渡航ということもあって、ほとんど事情は同じようなものだったと思われる。公歴は横浜出帆後18日でサンフランシスコに到着し、片山潜の場合も19日。よほどの荒天に見舞われなければ、このくらいの日数で到着したと考えていいだろう。
いよいよサンフランシスコにたどりついた。しかし、これからが大変だ。
次回は当時の現地がどんな状況だったかを見てみたい。
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