もそもの発端は、事件が起こった前年の明治25年(1892年)12月6日に桑港に入港した軍艦・金剛の歓迎式典にあったらしい。
航行中の金剛 大正末期ごろ |
予定されていた入港日より3日も早く、不意に入港してきた金剛に桑港の在米日本人は狼狽したものの、日本領事館の珍田領事と大日本人会の協力によって、盛大な歓迎会が催された。このとき、ヘイト青年会が歓迎活動に冷淡であったことが石川源三郎たち青年会メンバーへの反感の基盤となっていたようだ。
三郎たちが属していたヘイト青年会は、明治19年(1886年)9月に発足した。発足の動機は、明治14年から活動していたタイラ福音会がキリスト教色を弱めていたことにあったようだ。
当初ミッション街にあった青年会は、明治25年にヘイト街121番に移転し、以後、地名をとってヘイト青年会と呼ばれるようになる。
ヘイト青年会の正式名称は、「日本人基督教青年會」。英語での名称はJapanese Young Men Christian Association、つまりYMCAだ。しかし、1841年にロンドンに起り、1851年にアメリカへと広がったばかりのYMCAについてよく知るメンバーはなく、この名はたんにそれまでの福音会という名前を嫌って命名されたにすぎなかった。
偶然ではあるが、この名を選んだことが結果として後に石川源三郎が国際YMCAトレーニングスクールに通うきっかけとなり、バスケットボールをプレーする原因となるのだから、感慨深いものがある。
青年会はヘイト街に移転してから著しく発展したが、実はこの時から石川源三郎が深く関わっている。『在米日本人長老教會歴史』には、ヘイト街への移転が決まった明治25年8月9日の定期総会で、石川定邦(源三郎)、奥野武之介、坂部多三郎の3人が規則修正案を提出したと記録されている。その内容は、キリスト教青年会の名前にふさわしく、YMCAに準じた組織と規約を設けるべき、というものだった。
翌9月22日の青年会第一回理事会で、源三郎は理事会長に選ばれている。キリスト教以外の在米日本人組織から見た記録に「ヘイト青年会を牛耳っていた石川定邦(河村幽川・UCLA KAWAMURA PAPERS)」などとあるのは、このためだろう。
もっとも、源三郎自身、渡米の翌年の明治20年には既に在米日本人長老教会の3長老(役員)のひとりに選出されているぐらいだから、渡米当初から頭角を現していた有能な青年であったことは間違いなく、生意気な若者と見る人間も多かったのではないかと思う。
置きが長くなりすぎてしまったが、当時の桑港の在米日本人社会において、キリスト教系とそれ以外の団体(主に政論書生)が犬猿の仲であり、さらにそれぞれの系列のなかでも分裂や対立を繰り返していたことを念頭に置いて欲しい。
キリスト教色よりも互助組織色が強く、キリスト教系のなかでは政論書生系の団体にもっとも親しかったと思われる福音会ですら、「福音会員にして更に日本人会に加盟するは望ましからず」(福音会・明治26年6月10日例会での久保田保次郎演説)といった発言が見られる。
キリスト教系には文化の最前線にいるという自負があり、政論書生系には言論の自由な海外から国内をリードするという気負いがあり、ともに一歩も譲らない雰囲気だったようだ。
さらに言うなら、どちらも書生か書生あがり。血の気も多ければ、論だって多い青年たちだったはずである。
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て、事件というのは、実は御真影(天皇の写真)に対する不敬事件である。
この事件は、1890年代に桑港で発行されていた雑誌「遠征」の社員、青木広太郎の告発に端を発する。
明治25年の天長節(天皇誕生日)の翌日(11月4日)に石川源三郎が交わした会話を佐竹謹之助という人物が聞きとがめ、それを伝え聞いた青木広太郎が明治26年1月、当時休刊中だった「遠征」の代わりに愛国同盟系の日刊新聞「桑港新聞」に告発文を掲載したのだ。
不敬とされた源三郎の発言は天皇の写真(御真影)を敬拝することを「偶像ヲ拝スルト云フモノニシテ野蛮ノ遺習也」(偶像を拝む野蛮な行為)と評したというもの。
このころ日本国内でも、天皇制の周知・確立を目的に、学校などに専用の安置所を作って御真影を掲げ、敬拝させるようになっており、桑港でもそれと同じ事をしていた。これを批判したというのである。
これによって、不幸にもおそらくは海外で初の不敬事件の主役を石川源三郎が務めることになる。
治19年頃に国内で広められた御真影について、同時期に渡米した源三郎は、よく知らなかったのではないだろうか。もし、当時の国内の状況をよく知っていたら、人に聞かれるような場所で感想を言ったりはしなかったはずだし、御真影の存在自体にも、もっと危機感を強めていてよかったはずだ。
しかも、資料を見る限り、これは公の場での発言ではなく、たまたま私的な会話を聞きとがめられたものであって、本来新聞に告発されるような事ではなかった。
ところが事態は深刻化していく、「大日本人会」は明治23年に反目が続くキリスト教系団体と政論書生系団体を糾合した組織だったが、この事件を期にその危うい構造は一気に崩壊へ向かう。先の福音会の演説などがいい例である。
2月11日になって、遠征社は臨時会を開催して不敬事件の調査を決定した。決定も何も、個人の感想にそこまでしなくてもいいようなものだが、排日運動による不安と屈辱から、愛国・国家意識へと向かっていた政論派にとって、もともとキリスト教派は身内のなかのスパイのように思えていた存在だったわけだから、もう止まらない。
征社の呼びかけで2月20日、桑港の各会委員の会合が開かれた。しかし、福音会・重任会・青年会の委員は途中退席、残された政論書生系団体委員だけで青年会詰問のための連合会が結成される。連合会は翌21日、青年会の石川源三郎と稲沢謙一を訪れたが、源三郎はこの場で不敬発言を否定する。
これでおさまらない連合会は、3月1日大会を開いて国民的運動からの青年会追放を決議、その間も「桑港新聞」は全紙をあげて、毎日のようにキリスト教徒を非難。あまりのことにみかねた永井元らが2月11日、日刊紙「金門日報」を創刊してキリスト教の擁護を試みる。
5月27日の大日本人会大会では、連合会の攻撃に青年会も舌鋒鋭く応酬したが、ついに大日本人会からの追放が決定。拡大する一方の騒ぎは、もはや日本領事にも手のつけられない状況となった。(この項、さらに次回へ)
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