石川源三郎 Genzaburo Ishikawa
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10:グッバイ桑港(1)
治25年(1892年)、国際YMCAトレーニングスクールを卒業した石川源三郎は、スプリングフィールドから桑港(サンフランシスコ)にもどる。
 桑港での源三郎は、ヘイト街にあったキリスト教青年会の代表者に就任していたらしい。
 この間の詳細を知るためにウィンスコンシン大学マジソン校のレファレンス係・Ann Pollockさんに問い合わせたところ、大学図書館のアーカイブ担当者であるDavid Null氏に連絡を回して頂き、結果として何点かの資料を送ってもらうことができた。以下はそのうちのひとつ。
1893年Young Men's Era記事
 上の記事は、明治26年(1893年)12月7日発行のYMCA雑誌Young Men's Eraに掲載されたもの。
 内容はサンフランシスコの日本人キリスト教青年会(スプリングフィールド大学資料で「サンフランシスコYMCA」とあったもの)の7周年にあたっての源三郎の挨拶と国際YMCAトレーニングスクール卒業生である彼の簡単な紹介である。
 記事には、サンフランシスコの日本人キリスト教青年会が明治19年(1886年)に28人の若者によって創設されたこと、7年の歳月によって青年会の組織が整備されたことなどが源三郎自身の式辞として載っている。
 明治19年は石川源三郎が渡米した年であり、彼が属する長老教会のサンフランシスコ日本人教会が創設された年でもある。
 これらの事実に加え、キリスト教青年会7周年の式辞を述べていることやスプリングフィールド大学資料にYMCA部長であると明記されていること(とりもなおさず、当時のYMCAがそう理解していたことになる)などからも、石川源三郎がサンフランシスコのヘイト街にあった日本人キリスト教青年会の創設メンバーのひとりであったことと、代表者であったことはまず間違いないだろう。
 当時の桑港日本人社会、とりわけ官費留学生ではないスクールボーイの間で、アメリカ側の雑誌に顔写真と紹介が載る者は数少なく、貴重な存在だったことが想像できる。
 (→資料PDF脚注へ)(→原文と抄訳脚注へ
「自由の国」に潜む暗雲
鮮明だが、桑港時代の石川源三郎の写真からは聡明さと自信に裏打ちされた気の強さが感じられるようだ。いい表情である。
 記事と写真のキャプションには、石川源三郎の名前が「G・A・石川」と記されているが、このAはおそらく洗礼名だと思われる。
 または源三郎のあざなである「定国(邦)」をアダクニのように発音したもののかもしれない。このへんは、今後なにか新資料が出てこないと確定はできないだろう。当時の編集者が活字を何文字か節約しないで、名前を全部書いていてくれれば苦労はしなかったのに…。


時の日本人留学生のなかで特にアメリカ人に受けがよく、クリスチャンとしての情熱をもって日本人社会の向上に取り組んでいた石川源三郎は、そのまま行けば桑港の日本人社会の重鎮として成功していただろう。
 しかし、時代は必ずしも源三郎の後押しをしてくれるわけではなかった。日本人社会を取り巻く情勢と、源三郎自身の熱心さがあだとなり、ある事件をもとに彼の運命は大きく変わっていくことになる。
 この事件の背景には、当時の日本とアメリカ、そして在米日本人社会の事情が関わっているので、まずはそれから見てみよう。
日本人社会を襲う排日運動
治24年(1891年)、サクラメントで白人労働者による日本人労働者の追放事件が起きる。
 翌明治25年4月には、中国人排斥で名をはせたデニス・カーニー脚注へが日本人排斥の煽動を開始。続いて同じ4月には「エキザミナー」、5月には「ブレティン」「モーニング・コール」といった地元紙が次々と排日宣伝をはじめる。
 また、7月にはフレスノで突如十数人の日本人が拘引抑留され、同じ頃のアイダホでも疱瘡の流行を理由に日本人が放逐された。
 中国人労働者への反感もあって、アメリカ国内で比較的好意的に迎えられていた日本人(と日本人労働者)の蜜月時代は、ここに終わりを告げたのだった。
バナナのユウウツ?
日運動は、当然のことながら桑港の日本人社会に大きな衝撃を与えた。
 デニス・カーニーらの排斥運動には、経済的な理由のほかに人種差別的な動機もあるのだが、どうも当時のスクールボーイや自由民権家たちの間には、それに気づかないか、気づいていても認めたくないという雰囲気があったように思われる。
 もともと、彼らのほとんどが渡米した頃には、既にアメリカの中国人労働者数が膨れ上がっており、中国人排斥の動きと同時に人種差別的な発言も多く見られた。
 しかし、彼ら日本人渡米者は当時の中国人の特徴的な髪型である弁髪脚注へを欧米人がPig Tailと呼ぶのをそのままに、「豚尾漢」という言葉を中国人の差別的な通称として使った。同じ有色人種であるという考え方はそこにはなく、欧米人の差別意識に乗ってしまったわけだ。このへんは、バナナ(外見は黄色いくせに中身=意識は白人という日本人の性癖を表した呼び名)といわれた近年の日本人にも通じるものがある。昔の南アフリカでは、「名誉白人」なんていわれて喜んでいたりしたのがいたわけだしね。
 ともあれ、日本人排斥に遭遇した彼らは困惑し、かといって公に反抗もできないまま、屈辱感から日本の国家意識の連帯感に逃げ込んだ。そのなかで、石川源三郎をひとり飛び抜けた存在=打つべき出すぎた釘として見る人々がいたとしても不思議ではない。
 そして事件は起きた。
(以下次回)

参考資料
このページは以下を参考に作成しました。
資料提供やお問い合わせに答えてくださった皆様に感謝いたします。
  • ウィスコンシン大学図書館アーカイブ資料
  • 米国初期の日本語新聞(勁草書房)
    ※「米国初期の日本語新聞」の資料参照は、法政大学名誉教授・二村一夫先生の御指摘によるものです。この場を借りてお礼を申し上げます。
写真資料提供:
 スプリングフィールド大学・ボブソン図書館
Photo:the Archives and Special Collections,Babson Library, Springfield College, Springfield, MA
 ウィンスコンシン大学図書館アーカイブズ
Photo:the Archives,University of Wisconsin
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