石川源三郎 Genzaburo Ishikawa
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林市教育委員会から資料を送ってもらえたことに力づけられ、スプリングフィールド大学のボブソン図書館に問い合わせメールを送った。この大学の前身は国際YMCAトレーニングスクール。つまりバスケットボール発祥の地にほかならない。さらにネイスミス記念館にもメールを送った。
 つたない英語力でメールを書いたのだから、館林市の時とは事情が違う。返事はないかもしれない。
03:仮定の上の推論
事を待つ間、検索エンジンを使って石川源三郎を探してみた。
 すると出るわ出るわ…が、ほとんどは関係のなさそうなもの。欧文で探すともっと関係のないものばかり。おかげで鬼平犯科帳に石川源三郎という登場人物がいる事まで知った。鬼平に弟の敵として斬られる役である。
 後に原作者の池波正太郎と石川源三郎が出会って、小説に名前を借用された…などというのは突飛すぎる。無関係と考えていいだろう。
 検索でヒットした中に気になるものがあった。静岡県で高校の国語教師をされている堀江俊也さんのコンテンツである。
 静岡県富士市鵜無ケ淵の鵜無ケ淵神明宮にある記念碑の原文と口語訳が収録されている中に、石川源三郎という名前があったのだ。
 長文なので、口語訳の該当部分を抜粋する。(→資料全文脚注へ

(前略)
 今年一月、神戸市の上山歟作君は私財を投じ、ほこらの前の道路を修理した。
(中略)
 上山君は石川源三郎君の第二子である。十七歳にして故郷を去り、大坂の豪商岩井某のもとで働いた。時が経ち、神戸支店の管理となり、後に独立し、海外貿易を生業とした。
(以下略)
 大正四年乙卯十月
   生駒所適作 本多藤江書

 これは探し求める石川源三郎の子孫のことなのだろうか?
 洋行帰りの石川源三郎が海外貿易に手を染め、その子どもが同じ職業を選ぶ可能性はありそうだ。


静に考えてみると、この碑文の大正4年(1915年)、石川源三郎は57歳のはず(スプリングフィールド大学資料によるならば、49歳。04参照)である。その次男が海外貿易で財をなすのは、ちょっと年代的に無理のようだ。もしそうなら早婚・早熟にもほどがある。
 とはいえ、上山姓を名乗る子どもが実子ではなく、養子や猶子であることもありえる(にしても次男というのは…)。ともかく、ここは確認してみなければなるまい。
 こんな問い合わせはさぞ迷惑だろうと思いつつ、堀江さんに連絡をとってみた。
もうひとり?の源三郎
いにも堀江さんはこの件に興味を持ってくださった。しかし、地元の図書館の郷土資料にも石碑についての資料はなく、石川源三郎の正体についても手がかりはないとのこと。堀江さんからの返信には、次の一節があった。

「私見ですが、残念ながら同名異人の可能性が高いと思います。同地区では比較的に石川姓も多く、他の石碑などから、この地域に明治以前から石川姓が多く見られるように伺えます。そのため、群馬県藩士の石川氏が移住してきたと見るよりも、古くからの地元の『石川氏』と見る方が妥当かと思われます。おかげさまで、バスケットボールの先達『石川源三郎』の存在を知ることができ、もしも彼が富士市に住まいを移してきたのなら、と歴史的なロマンに思いを馳せることができました。」

 どうやら、この件は勇み足のようだ。
 もうひとりの石川源三郎はどんな人物だったのだろう。私はしばし思いをはせた。

参考資料
このページは以下を参考に作成しました。
資料提供やお問い合わせに答えてくださった皆様に感謝いたします。
  • 堀江俊也氏 富士市周辺石造文化財資料
写真資料提供:
 スプリングフィールド大学・ボブソン図書館
Photo:the Archives and Special Collections,Babson Library, Springfield College, Springfield, MA
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