い英文でスプリングフィールド大学のボブソン図書館に送ったメールの返信が到着。司書のEleanor Corridanさんからの丁重かつ詳細な文面で、一気に石川源三郎の事蹟がわかってきた。
(→資料全文)
ールで送られてきた石川源三郎の略歴を整理、館林市教育委員会の資料とつきあわせてみた。
以下に抄録する。私の不勉強による不明確な翻訳部分は、原文を参照して頂ければ幸甚である。(勉強はちゃんとしておきましょう)
- 1866年(慶応2年)
- 7月27日に館林に生まれる。
- ※館林市教育委員会資料では1958年(安政5年)生まれ。
- 1868年(慶応4年)
- 父死去。
- 1872年(明治5年)
- メアリ・C・マクレー(後に源三郎の妻となる)、カナダ・オンタリオ州アレクサンドリアに生まれる。
- 1876年(明治9年)
- 源三郎、母の生地の東京へ。
- 1886年(明治19年)
- 日本を去り、サンフランシスコのウェストミンスター・プレップスクール(大学進学予備校)に入学。
- 1889年(明治22年)
- サンフランシスコのPacific Theological Seminary(神学校)に入学。
- 1890年(明治23年)
- 3月、Northfield Massに移動?マウントハーモン・プレップスクールに入学。
- 9月、国際YMCAトレーニングスクールに入学。
- 1891年(明治24年)
- 12月21日、バスケットボールをプレー。
- 1892年(明治25年)
- 国際YMCAトレーニングスクール卒業。サンフランシスコYMCA部長に就任。
- 1893年(明治26年)
- サンフランシスコYMCAを辞める?ウィスコンシン大学マジソン校に入学。
- 1901年(明治34年)
- 博士論文を提出。メアリとともに東京に戻る。
- 8月1日、アレクサンドリアでメアリと結婚。
- 1903年(明治36年)
- 三井物産に勤務。
- 1905年(明治38年)
- ドイツ・ハンブルグ支店の総支配人となる。
- 1906年(明治39年)
- 4月4日、長女・アケミ生まれる。
- 1914年(大正3年)第一次大戦勃発
- 1917年(大正6年)
- 戦争のため、ハンブルグ滞在が困難となり東京に戻る。しかし、妻と娘は別にアレクサンドリアへと向かう。
- 1918年(大正7年)第一次大戦終了
- 三井物産を退社。妻と娘は東京に戻らず。
- 1923年(大正12年)
- 東京の国際無線電話社の代表となる。
- 1924年(大正13年)
- 東京でNHK理事会のメンバーとなる。
- ※館林市教育委員会資料では、1925年(大正14年)にNHK設立委員。
- 1934年(昭和9年)
- 東京でNHK理事会のメンバーとなる。
- 1941年(昭和16年)第二次大戦勃発
- 1945年(昭和20年)第二次大戦終了
- 1952年(昭和27年)
- 12月4日、メアリ、カナダで死去。
- 1956年(昭和31年)
- 12月7日、源三郎、代々木(富ヶ谷)にて死去。
- ※館林市教育委員会資料では、同年に多磨霊園に葬られている。
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- 源三郎とメアリは正式離婚していない
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プリングフィールド大学から送られてきた資料は、水谷豊先生(桐朋学園大学短期大学部教授)の調査が基になっているものであることが明記されている。実は館林市教育委員会の資料も同様であった。
水谷先生は、日本におけるバスケットボール史研究の第一人者。しかも、この調査はテレビ朝日で放送された「スポーツフロンティア」という番組で石川源三郎を紹介するためのものだったという。そんな番組が既にあったのだ!
放送は平成3年12月22日(午後11時)。水谷先生にこれからのコンテンツ掲載の許可をお願いするとともに、番組のビデオを入手するため問い合せをはじめた。(既入手)
林市教育委員会資料とスプリングフィールド大学資料で明確に違っているのは、源三郎の生年である。
しかし、館林市の資料でも源三郎が10歳で上京したと明記されていたのだから、ここでは以下の略歴と符合するスプリングフィールド大学の慶応2年7月27日出生説を採りたい。したがって、バスケットボールをプレーした歳も25歳に下方修正(笑)。
これだけの事蹟が一度に明らかになると、いささか消化不良を起こしてしまう。
まず、源三郎の上京についての疑問は、東京が母の生地であったという事で一応の解決を見た。父の死去後、源三郎が10歳になるまで館林で生活し、実家に帰ったというところだろう。
源三郎が渡米したのは明治19年、20歳の時のことだというのもわかった。自分の人生を決めていい歳だが、それまでの間、何をしていたのかはわからない。英学校にでも通っていたのだろうか?また、20歳での渡米というのは徴兵逃れという線も考えられる。
渡米後、神学校に入学していることからも、その後押しを教会またはYMCAが行なっていた可能性は残る。日本のYMCAの歴史は、1880年(明治13年)の東京YMCA創立に始まり、源三郎の渡米した1886年には神戸YMCAも誕生しているわけだから、平仄はあう。
意外だったのは、源三郎が国際結婚をしていたこと。さらにNHKの設立委員に名を連ねていたことである。
れにしても、略歴からは石川源三郎という人物がたどった運命の道筋しかわからない。
彼が何を思い、妻子との離別や2度の大戦による崩壊と再建をどのように見つめていたのかは、もっと資料を集め、そこから推測するしかないのだろう。もっとも、人間の心の裡を正しく知る資料があるとは思えない。
幸いにして、私は歴史の研究者ではなく、このコンテンツも研究報告書ではないので、自分じしんの身の幅によって感じられる石川源三郎というものを虚構(想像)を交えて記していくことにする。
そのかわり、できるかぎり基となった資料は正直に提示する心算。より正確な研究は他者に委ねるのが正解だと思う。
ただし、資料の2次使用に際しては、提供された個人や団体に確認するようお願いしたい。
さて、今回の資料に基づいた問い合せをはじめるとしよう。
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