石川源三郎 Genzaburo Ishikawa
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09:スクール・ボーイたち
ンフランシスコ(桑港)に渡った源三郎たち留学生のほとんどは、スクール・ボーイとなった。
 スクール・ボーイとは男子学生という意味ではなく、就学生と訳されるホームステイをして働きながら勉強をする学生のこと。学僕とか、もっと端的には下女書生という呼ばれ方もしたらしい。
 スクール・ボーイの週給は1〜4ドル、この金額は白人を雇ったなら日給となるところ。官費留学生とは違い、英語もほとんどできず、資金もない留学生にとってスクール・ボーイとしての生活はなかなか厳しいものがあったようだ。さまざまな資料に、スクール・ボーイで勉強の目的を果たせたものは少数にすぎなかったと記されている。
目前に汚れた皿、未来には…
クール・ボーイの代表格といえば、やはり片山潜である。
 片山の場合、スクール・ボーイをしているうちに料理人としての腕を上げ、とくにケーキやパイ作りにかけてはプロ級だったようだ。一時、ホテルのコックとしても雇われているのだから、大したものである。
 その回想録から、当時の様子を追ってみよう。
 当時、サンフランシスコへと渡った留学生たちは、中国人街にあった福音会脚注へを頼るか、桂庵と呼ばれる私設の職業斡旋業者を頼ったようだ。
 桂庵には安い宿泊所と日本の食品や日用品の売店などがあり、中には通訳や金貸し、私書箱のような役割を持っていた所もあったらしい。
 ホームステイ先を転々とする事が多かったスクール・ボーイたちは、日本からの手紙を桂庵宛てに送ってもらっていた。また、仕事にあぶれた時は、桂庵に泊まって仕事を紹介してもらったり、当座の生活費を借りたりした。
 しかし、なかにはスクール・ボーイたちを利用して金儲けに走る桂庵も少なくなかったようだ。
 回想の中で、片山潜は当時のサンフランシスコを「桑港ゴロツキ社会」と言い切っている。片山自身、渡米まもない頃にやっとありついた皿洗いの仕事を紀州人・田中鶴吉によって奪われたり、一緒に渡米した元海軍省職工の矢野美造が帰国する際に有り金を巻き上げられたりしており、後年の回想でも怒りをあらわにしている。
 もっとも、生活のためとはいいながら後年、留学生用のガイドブック「渡米案内」を出版し、現在の旅行代理店のような仕事をしたため、渡米屋という陰口をたたかれていた片山潜も、スクール・ボーイを食いものにしていたと言えなくもないのだが。
 ともあれスクール・ボーイたちの生活は、白人家庭の雑事に追い回されることで成立していた。片山潜は回想録で当時の気持をこう記している。

 「環境は人間をつくる。新しい環境に投げ込まれると、私はエプロンを着て皿洗いになった。しかし私は平然としていた。現在、私の前には汚れた皿があるが、将来は私の前にすべてがあるのだ。」
現代のスクール・ボーイ
川源三郎、片山潜、石阪公歴、高野房太郎…近いところでは、大正10年(1921年)に30歳で渡米した市川房枝脚注へもスクール・ガールだった。
 もちろん、海外で働きながら勉強しようとする日本人は今もいる。そうした例を探そうかと思った時、大切な事を忘れていたのに気づいた。
 私を含めて、多くの人が日本に学びに来ているアジアをはじめとする就学生たちを一度は見たことがあるはずである。
 彼らにとっては今の日本が、源三郎たちの時代のサンフランシスコなのではないだろうか。
 現代のスクールボーイたちは、日本にいる。サンフランシスコの福音会や桂庵に相当するものもきっとあるだろう。
 ただ、当時のサンフランシスコの家庭ほども、私たちはスクール・ボーイには開かれていない。せめて、日本が彼らを食いものにする「東京ゴロツキ社会」ではないことを祈りたいのだが…。


回紹介した石阪公歴の手紙後半から、スクール・ボーイについて書き送った部分を抜粋してみる。

 当地の日本人の役割はさまざまで、スクールボーイ(毎朝皿を洗い、毎夜皿を洗い、その家の部屋を借りて住み、家を掃除して学校に通うもの。週給1〜4ドル)、ハウスヲーク(家を掃除し、庭を掃き、その他窓を拭くなど家の中で働くもの、週給はスクールボーイと同じ)、クック(料理番)等のような半人前の仕事をして学校に通う者は100人に1人ぐらい。そのほかは無為に日々を過ごしている。宣教師ハリスも努力しているが、いい結果はでていない。
 もともと福音会は日本人の都合のよいように設けたもののようだ。信者でないものも発起人名簿に乗っている。信者のなかにも本当の信者は少ないため、このような状態では福音会の振興は難しいと嘆く人もいる。(当地に来るのは、東京でも食い詰めたものか、道楽書生だから当地に来ても以前と同じありさまだ)
 近藤、鈴木はクックとスクールボーイを兼ねているという。私はスクールボーイだけをしている。給料はなし、食事は主家で食べ、宿泊は福音会。宿泊料は週50銭。これは主家が出してくれている。
 主家はいたって親切で、言葉がわからず、物の名前を知らない私に親切に教えてくれる。
スクール・ボーイたちの手紙
阪公歴とともに渡米した高野房太郎もまた、近況を父・岩三郎に書き送っている。

1890年10月9日付
 (略)
 もとより私の考えは、(アメリカで)高等な専門科学を学ぼうというものではない。ただ普通の学問、つまり日本に帰った時「あの人はアメリカにいたのに外人と十分に話すこともできない」と言われない程度の勉強をしたいと思っている。
 タコマには十分な学校がないので、当地(サンフランシスコ)に来た。奉公口(働き先)が見つかり次第、当地の商業学校(無月謝)に通うつもり。4〜5か月も通学すれば、会話も上達し、どこへ行くにもさしつかえない談話ができるようになると思う。
 タコマからこちらに来た際の雑費を引いて、手元には25ドルほど残っている。これに毎月スクール・ボーイの給料を加えて、今後学校に通う間、そちらに送金したいと思う。
 もし私の計画と違い、これらの準備金がなくなった時は学ぶのを止める時となる。今は4〜5か月(の勉強)と思っているが、あるいは2〜3か月で止める場合もあるかもしれない。そうならない事を祈るばかりだ。
 私たちがしている仕事のなかで、料理人の仕事が最も多額の給料を得られる。私はこれまでに料理人の仕事は禁物としてきたが、今度スクール・ボーイをすることを幸いに、少しはアメリカ料理の事を勉強し、多額の給料を得られるよう心がけたいと思う。
 いまだ仕事も見当らないので、詳しいことは報告できない。当地に来た理由を簡単に書くだけにしておく。
 (略)

 さて次回は石川源三郎のサンフランシスコ生活を探ってみよう。

参考資料
このページは以下を参考に作成しました。
資料提供やお問い合わせに答えてくださった皆様に感謝いたします。
  • 石阪公歴のアメリカ便り(東京成徳大学・鶴巻孝雄先生の北村透谷研究資料より)
    ※石阪公歴の手紙文は、鶴巻孝雄先生の御厚意により転載引用させて頂きました。この場を借りてお礼を申し上げます。
  • 高野房太郎より高野岩三郎宛書簡(法政大学名誉教授・二村一夫先生の高野房太郎研究資料より)
    ※高野房太郎の手紙文は、二村一夫先生の御厚意により転載引用させて頂きました。この場を借りてお礼を申し上げます。
  • 片山潜 歩いてきた道(日本図書センター)
    ※片山潜の資料参照は、法政大学名誉教授・二村一夫先生の御指摘によるものです。この場を借りてお礼を申し上げます。
写真資料提供:
 スプリングフィールド大学・ボブソン図書館
Photo:the Archives and Special Collections,Babson Library, Springfield College, Springfield, MA
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